Avsnitt

  • 聖書箇所: Ⅰテサロニケ5:16

    いつも喜んでいなさい。

    ・ 喜び = カイロー(ギ) =神の恵みを喜ぶ。

    神の恵みを経験し、神の恵みを意識する。

    ・ 喜ぶの語源:カル(ギ) = 好意的に扱われる、傾く。

    ・ 私たちの人生において、あらゆる局面で「喜び」を持つことを聖書は教えている。

    Ⅰ.聖霊による喜び

    Ⅰテサロニケ1:6 あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちに、そして主に倣う者になりました。

    ・ 彼らは聖霊による喜びの後押しを受け、称賛される信仰を手にしていった。

    ・ 聖霊は私たちにイエス様を明らかにしてくれる霊。

    ・ 福音の感動がある者には、苦難があったとしても、内側には聖霊による喜びが満ち溢れている。

    Ⅱ.弱さを大いに喜ぶ

    Ⅱコリント12:9 しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

    ・ 「恥の文化」がもたらす空気感が私たちを罪悪感と空虚感に追い込む。

    ・ 周りに合わせることから始めるのではなく、自分を認めるところから始める。不十分な部分を主は恵みをもってカバーしてくれる。

    Ⅲ.喜んで仕える

    エペソ6:7 人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。

    ・ 私たちは人で判断するのではなく、主がその人をどのように思っておられるかで判断する。

    ・ 主は心を見られている。

  • 創世記 15:4-5

    :4 すると見よ、【主】のことばが彼に臨んだ。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」

    :5 そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」

    :6 アブラムは【主】を信じた。それで、それが彼の義と認められた。

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  • 聖書箇所: ヨシュア3章、Ⅱコリント3:18

    ヨシュア記 3:15 箱を担ぐ者たちがヨルダン川まで来たとき、ヨルダン川は刈り入れの期間中で、どこの川岸にも水があふれていた。ところが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際の水に浸ると、 3:16 川上から流れ下る水が立ち止まった。一つの堰が、はるかかなた、ツァレタンのそばにある町アダムで立ち上がり、アラバの海、すなわち塩の海へ流れ下る水は完全にせき止められて、民はエリコに面したところを渡った。

    Ⅰ.モーセからヨシュアの時代へProject7-ヨシュア世代

    出エジプト記 14:21 モーセが手を海に向けて伸ばすと、【主】は一晩中、強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされた。水は分かれた。

    ・ モーセの時には、彼一人が手を向けて伸ばすと、海が分かれた

    ・ ヨシュアの時には、祭司たちの足が水に浸ると、ヨルダン川はせき止められた

    ・ モーセの時代よりもヨシュアの時代は「みんな」が自発的に約束の地を攻め取る気持ちが強かった

    ・ 主の恵みも一人のリーダーから「みんな」へと広がって行った

    ・ 神様の恵みは、進歩していく

    Ⅱ.主と同じかたちに変えられる

    2コリント 3:18 私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

    ・ イエス・キリストよって、旧約聖書の預言を成就されたことにより、完全な救いの道が開かれた

    ・ イエス・キリストが、私たちのために十字架にかかり、罪を赦されたことを信じて受け入れる時、新しい生き方に入れられる

    ・ 主と同じ姿になるまで、変えられ続ける

    Ⅲ.未来はもっと良くなる

    ・ 未来はもっと良くなるという時、多くの人は信じないだろう

    ・ 「失われた30年」と言われ、戦争や災害が起こっているから

    ・ 主の目から見れば、ますます恵みが増し加わっていく

    ・ 若い人も年上の人たちも、一致して神様が与えた約束の地を勝ち取ろう

  • 今回のエピソードの冒頭、受洗されたお二人の証もあります。どうぞお聞きください!

    またメッセンジャーは大阪J-Houseの主任牧師の飯田克弥先生です!

    聖書箇所

    マタイ 22:37-39

    37 イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』38 これが、重要な第一の戒めです。39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。」

    マタイ 28:19-20

    19 ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、20 わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

  • マルコ 12:29 イエスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。

    マルコ 12:30 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』

    マルコ 12:31 第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」

    Ⅰ.私たちの根本的な動機「愛」

    ・神様の命令や戒めは、すべて私たちの幸せのため。

    ・愛するは「〜したい」と、自発的に選んだことに向かって行動する。

    ・神様を愛するとは、神様を「一番のしたいこと」にすること。

    ・私たちは何かを愛し、何かに心を向けている。

    ・煮詰めると3択。自分・悪魔・神様。神様を愛することが一番幸せ。

    ・愛の向いている先のものが、自分の性格と人生をかたちづくっていく。

    Ⅱ.異なる3つの次元のニーズ

    ・物理的・社会的・霊的次元

    ・良い人間関係は、健康に良い・人間関係の質が大事・脳に良い。

    ・神様の命令に従うのが難しいのは、3つの次元が互いに対立する場面があるから。

    ・順番が大事。霊的次元が一番、社会的次元が二番。

    Ⅲ.要求できない「愛」

    ・聖書は、命じているが、要求はしていない。

    ・誰かを無理やり愛させることはできない。

    ・罰(呪い)も報酬(祝福)も外発的動機になるので、純粋な愛にはならない。

    ・神様を純粋に愛すること自体が、私たちの幸せ。

    ・イエス様は、私たちの罪のために自分からいのちを捨てられた。

    ヨハネ 10:18 だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」

  • 1.宣教的な教会は、地域に留まらない

    2.宣教的な教会は、恐れを超えた歩みをする

    3.宣教的な教会は、自分のキャパシティーを超えた歩みをする

  • 聖書箇所:使徒1章、マタイ16:24

    使徒の働き 1:4 使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」1:6 そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」

    I.全く理解できない出来事-イエスの昇天

    使徒の働き 1:9こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。イエスが上って行かれるとき使徒たちは天を見つめていた。

    l 弟子達がイエスに従ってきた一つの動機は、イエスが地上の王となり、自分達が起用されると思っていたから

    l そのイエスが、目の前で天に昇って行かれる様子を、彼らは呆然と見上げていた

    II.イエス様の命じたことをやってみる-祈り

    使徒の働き 1:13 彼らは町に入ると、泊まっている屋上の部屋に上がった。この人たちは、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。1:14 彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。

    l 彼らはイエスに命じられた通り、エルサレムに戻り、「父の約束」である聖霊を求めるために祈りはじめた

    l 最初は、どうやって祈ったら良いのかも分からなかったかもしれない

    l いつまで祈ったら良いのかも分からなかったが祈り続けた

    III.彼らは「自分のために生きる」ことから「主のために生きる」ことへ

    マタイ 16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。

    l 弟子達は、イエスの十字架で一度夢を失い、昇天で二度目の夢を失った

    l エルサレムでの祈りの時は、彼らが自分を捨て、イエスについていくプロセスとなった

    l 準備が出来た時、聖霊が下り、彼らは「主のために生きる」生涯へと変えられた

  • 講師紹介:

    14歳のときに奇跡を通して神と出会う。2005年にCFNIを卒業。2006年に大阪府堺市にてELEVATE CHURCHを開拓。堺市東区にて高校生伝道からスタートし、教会に来た高校生が一人ずつイエスキリストの救いを経験。やがてあらゆる年齢層の方々が集うようになり、主の導きの中で、2014年に三国ヶ丘に移転し、現在に至る。2009年に持和師と結婚し、4人の子供に恵まれている。元KBI教師。2011年に『NEXT GENERATION〜ユースミニストリーの変革〜』、2014年に『君に伝えたいこと』、2016年に『NEXT GENERATION〜ヨシュアの世代と共に〜』、2018年に『天と地をつなぐ礼拝』などの書籍の執筆も行う。

    聖書箇所: ヨハネの福音書20:24〜29

    24 十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。

    25 そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。

    26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。

    27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

    28 トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」

    29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」

    I. 神様はすべてのことをご存知です

    II. 教会の中でも比較によって傷ついている人がいます

    III. 神様はあなたに必要な経験を与えます

  • ヨハネ15:4-7

    "わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

    わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

    わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。

    あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。"

  • 聖書箇所:ルカ22章、ヨハネ21章

    I.十字架を通して、本当の自分に出会う

    ルカ22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

    l 最後の晩餐の後の十字架裁判の中で、ペテロは本当の醜い自分と直面した

    l 多くの人々の自分に対するイメージは間違っている。

    l 「わたしこそ、その人だ」と思っていたのに、そうならないということを経験したことがあるだろうか?

    l 打ち砕かれるような経験である

    II.イエス様は私達そのものを受け入れ、愛して下さる

    ルカ22:61 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。22:62 彼は、外に出て、激しく泣いた。

    l ペテロが、イエス様のことを否定した時、イエス様がペテロの方を振り向かれた

    l それは恥と屈辱と、自分の罪に直面させられた瞬間だった

    l しかし、その経験が次の信仰の段階へと彼を導いた。

    l イエス様は、私達の本当の姿をご存知の上で、愛して下さっている

    III.何も頼るものが無いところから、回復させてくださるイエス様

    ヨハネ21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」21:7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。

    l ペテロがどんなに変わったかを示している。

    l 他の弟子たちは、たくさん捕れた魚を引き上げるのに必死だったのに、ペテロにとってはそんなことはどうでもよかった!

    ヨハネ21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。

    l この時のペテロは、空っぽだったが、イエス様は彼に新しい使命を与えられたイエス様は、様々な段階を通して、私達を整え成熟させて下さる

  • 聖書箇所:マタイ5:6、Ⅰコリント15:9-10、Ⅱペテロ1:2-4、エペソ2:8-9

    マタイ 5:6

    義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。

    1コリント 15:9-10

    :9 私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。

    Grace is undeserved power from God to live a vibrant, victorious life.

    恵みとは、勝利的で活力に満ちた人生をおくるために神様から一方的に与えられる力。

    Ⅱペテロ 1:2-4

    :2 神と、私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。:3 私たちをご自身の栄光と栄誉によって召してくださった神を、私たちが知ったことにより、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔をもたらすすべてのものを、私たちに与えました。:4 その栄光と栄誉を通して、尊く大いなる約束が私たちに与えられています。それは、その約束によってあなたがたが、欲望がもたらすこの世の腐敗を免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。

    エペソ 2:8-9 :8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

  • エペソ 1:15 こういうわけで私も、主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛を聞いているので、

    エペソ 1:16 祈るときには、あなたがたのことを思い、絶えず感謝しています。

    エペソ 1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

    エペソ 1:18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、

    エペソ 1:19 また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。

    エペソ 1:20 この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、

    エペソ 1:21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。

    エペソ 1:22 また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。

    エペソ 1:23 教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

    エペソ 6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。

    ローマ 4:20 不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、

    ローマ 4:21 神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。

    1ヨハネ 4:4 子どもたち。あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。

  • 洗礼者の証:志田くん、モリーちゃん、ゴくん

    聖書箇所:ヨハネ14:6、マタイ11、Ⅱコリント12

    ヨハネ 14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

    I.イエスはよみがえられた

    l いのちほど大切なものはない

    l イエスが十字架で死なれた時、誰もが「すべてが終わった」と思った

    l しかし、三日目の日曜日の朝、よみがえられた

    l それは、イエスが死に打ち勝って、永遠のいのちであることを証明するため

    l 十二弟子だけではく、500人以上の人々に同時に現れた

    l 彼らは、イエスの十字架と復活を力強く宣べ伝えた

    II.よみがえりのイエスは私達と共に歩んでくださる

    マタイ 11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

    l 私達の多くに共通しているのは、重荷・疲れ・恐れがあること

    l いのちであるイエス・キリストを信じて受け入れる時、私達を休ませ、重荷をともに負って歩んでくださる

    l あなたにとって、重荷とは何だろうか?

    l その重荷を主の前に下ろすとは、何をすることだろうか?

    III.今も生きておられるイエスによって、弱さも誇ろう

    Ⅱコリント12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

    l パウロは、弱さを持っていて、主に祈ったが取り去られなかった

    l パウロは弱さを抱えながら、主と共に恵みの中を歩んだ

    l よみがえりのイエス・キリストの力におおわれて、弱さを誇りながら生きよう

  • 1テサロニケ 5:16-19

    :16 いつも喜んでいなさい。

    :17 絶えず祈りなさい。

    :18 すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

    :19 御霊を消してはいけません。

    詩篇 19:12-14

    :12 だれが自分の過ちを悟ることができるでしょう。どうか隠れた罪から私を解き放ってください。

    :13 あなたのしもべを傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。そのとき私は大きな背きから解き放たれて全き者となるでしょう。

    :14 私の口のことばと私の心の思いとが御前に受け入れられますように。【主】よわが岩わが贖い主よ。

  • 聖書箇所:1ペテロ 2:20-25

    1ペテロ2:20 罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。:21 このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。:24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。:25 あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。

    I.どのような苦しみを受けたのか?

    l 精神的苦痛:理不尽さ、裏切り、屈辱

    l 肉体的苦痛:むち打ち、見せしめのために考え抜かれた十字架刑

    l 霊的苦痛:天の父との断絶

    自分の問題から目を離し、イエス様が払って下さった犠牲を思い起こしましょう。

    II. なぜ苦しみを受けたのか?

    l 原罪:神様が人類を拒絶したのではなく、人類が神様を拒絶した。

    l 神様は拒絶されてもなお私たち人間を助けたいと思われた。

    l イエス様は部外者でいることを良しとされず、私たちを助け出すために、地上に来られて苦しみを受けた。

    III. 私たちの苦しみとどう関係するのか?

    l イエス様は苦しみを避ける道ではなく、苦しみを乗り越える道を歩まれた。

    l イエス様は、天の父への信頼と、聖霊様の助けによって苦しみを乗り越えた。この生き方にならうように私たちは召された。

    l 苦しみから自由になる=苦しみがあったとしても大丈夫だと確信できること

    l イエス様は苦しみの奴隷とはならず、自由な生き方を貫いて十字架にかかられた。

    l 平安がくるまで、賛美し、祈りましょう。

    l 苦しみの多いこの厳しい世界を誰と一緒に歩むかが肝心。

    l 「聖霊様がくださる平安がなければ、奴隷になってしまう」というのが霊的現実。

  • ダニエル 3:16 シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは王に答えた。「ネブカドネツァル王よ、このことについて、私たちはお答えする必要はありません。

    ダニエル 3:17 もし、そうなれば、私たちが仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ、あなたの手からでも救い出します。

    ダニエル 3:18 しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません。」