Avsnitt
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近寄ってほしくない人に対して「近寄らないで!」と意識すると、互いの関係が深まり、結果として近づくことになります。
ネガティブな意識は、薄めることによってのみ、ポジティブに変換することができます。
ネガティブ意識を薄めるのに役立つのは、自分への実況中継です。今やっていることを、自分に対して、逐一レポートすることです。
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あなたは神様を、自分の「便利屋」さんにしていませんか?
自分の都合で、自分の利益のために、自分の幸せだけのために、何かを神様に「こうしてください」とお願いしているのなら、神様を便利屋扱いしているようなものです。
そういう願いは叶いませんよ!
当たり前に受け取っているギフトへの感謝を捧げ、自分より広い意識で、全体の幸せを願うと、巡り巡って、あなたが幸せになります。
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Saknas det avsnitt?
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祈りと呪いは紙一重。想いが強いとき、その強さを祈りに載せてはなりません。
祈りは軽やかに、柔らかく行うものです。
神社・仏閣・教会などで祈るときは、自分の想いをふんわりと柔らかく、パステルカラーで祈るのが良いです。
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あなたが、もし、ありのままの自分を受け入れられないとしても、自分を責めることはありません。
「ありのままの自分を受け入れてはならない」という、しつけや教育や洗脳を受けてきたのだから、どうしようもない。
あなたが、ありのままの自分を受け入れられないのは、あなたのせいではなく、外側からの影響によるものです。
あなたの魂は、親や教師に説教されなくても、ぜんぶ知っているので、ありのままにしてさえいれば、それで大丈夫なのです。
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許せない人、許せないことがあるとき。おそらく、あなたは自分自身を許していないはずです。
感情が許さなくても「自分を許す」と、自分に言ってあげてください。
どんなにダメな自分をも、許せるようになると、他人を許せるようになりますよ。
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別れが悲しければ悲しいほど、その人と共有したのは限りなく幸せな時間だったという証です。
その別れが悲しくないのなら、その人との関係は、つまらないものだったのでしょう。
今はとても悲しいけれど、同時に幸せをかみしめています。
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私には、できないことが、たくさんあります。できるか、できないか知らないことも、きっとたくさんあるでしょう。
18歳~22歳の若い人々とお話をする機会があり、感じたことをお伝えします。
世代の集合意識というものがあるとしたら、彼らには「できることは、やる」「できないことは、やらない」という意識があるようなのです。
それは慢心とか、驕慢ということではなく、自分の役割や使命に集中している感じ。
できることだけを熱心にやることに決めていたら、できないことは存在しなくなるわけです。
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日々、色々ありますよねぇ。思い通りにすすまないこと。不愉快なこと。心が折れそうになること。悲しいこと。出口の見えない迷いや悩み。あるある、あります。
でもね、大丈夫なんです。
世界は、これ以上ありえないくらい、完璧に整えられています。同時に世界は、混沌としたまま、フワフワと漂う儚(はかな)い夢のようなものです。その完璧さと、儚さの両面をもつのが、世界というものです。
これまでも、何とかやってきました。これからも、何とかやっていきましょう。
苦しみがあるから、楽しみを受け取ることができる。悲しみがあるから、喜びを感じることができる。
世界は、やたらと乱れ、そして完璧に整っています。
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原因のはっきりしない焦りや不安。じっとしていられない感じ。とにかく落ち着かない。イライラ、ソワソワする。
この「焦燥感」という名の、いたずらっ子は、なかなか手強いのです。
何かしないとダメなんだけど、何をしたらいいのか分からない。急いでやらなきゃ!と思うんだけど、時間ばかりが過ぎていく。
あぁ!もう!
どうしよう!
あるある、ありますね。
自律神経がどうとか、ホルモンバランスがどうとか、まぁ色々とご意見はあるでしょうが…。
焦燥感の元ネタは、ずばり「疲れ」です。精神的に、肉体的に、あるいは脳的に、とにかく疲れています。
「この場をどうにかしよう」
「何とか、やり過ごそう」
「急いで通り過ぎてしまおう」
とか何とか、ごまかそうとしているとき。独特の焦りを感じるはずです。急げば急ぐほど、その焦りは拡大します。
もうね、疲れをほぐすしか、方法はないんです。今、急いだら、もっと遅くなりますから。今、ここで、ただちに急ぐことを諦めましょう。
ちゃんと疲れを、疲れとして感じてください。体が、重くなっているはずです。急がば回れ。急がば休め。
とにかく目を閉じて、横になってみてください。
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禊(みそぎ)というのは、清らかな水を浴びて、罪・穢(けがれ)を洗い流すことです。
神イザナギは、亡くなった妻の神イザナミを追い求め、死者の国に生きました。女神イザナミ神は、腐敗した肉体を夫に見られたくないので、「私の姿を見ないで!」と頼みました。なのに…神イザナギは、妻の姿をコッソリ見てしまったんですね。
愛は、狂気と紙一重です。夫は、びっくりしたでしょうねぇ。妻は、怒ったでしょうねぇ。
もう、許さない!妻は夫に襲いかかります。
やっとのことで生者の国に逃げ戻った神イザナギは、死者の国の穢れを洗い流すため、清らかな川の流れに身を浸しました。
すると…神イザナギの体から剥がれ落ちた垢(あか)が、新しい神々になりました。
左目の垢は、アマテラスに。右目の垢は、ツキヨミに。鼻の垢は、スサノオに。
あらららら…。高貴な神々は、もともと目くそ鼻くそだったんですねぇ。
醜い姿を見られたくない、と切望した奥様イザナギ。その腐敗した肉体の破片を、全身に浴びた神イザナギ。
さらに、その垢から、三神、スーパースターが生まれちゃったのです。
というわけで、本日お伝えしたいのは…どんなに恥ずかしいことや、知られたくないことがあっても、大丈夫!…ということです。
罪や穢れは、清らかな水に触れたとたん、高貴なものに変わるかもしれません。お日様にあたり、樹木に触れるのも、禊(みそぎ)になります。海や川に身を浸せば、なお良し。シャワーを浴びるだけでもOKです。
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友人女性(自己申告によるとトランスジェンダー・戸籍上は男性)と久しぶりに飲みまして、いわゆる「恋バナ」を聞かされました。
トランスジェンダーというのは、体の性別と心の性別が一致しない人、あるいは体の性別に違和感を抱く人のことです。
性的マイノリティ、という言葉の響きは、10年ほど前から比べると、だいぶ軽やかになったようにみえます。
が、この言葉が存在する限り、私の友人は「卑屈」にならざるをえない、というのです。
ちょっと待ってよ!と、熱くなる私…。
性的だろうが、社会的だろうが、マイノリティっていうのは「少数派」のことです。反対側に「マジョリティ(多数派)」がいるわけで。
そもそも、友人と私には、ひとつの共通点がありまして。その共通点というのは、ものすご〜く変わっていて、ものすご〜く少数派なのです。その点について、多数派の方々とは、決して理解し合えないと思います。理解し合えないままで、まったく問題ありません。
だって、私たちは、そういう風に生まれてきたのだから。それを受け入れて、このまま生きていけばよいのだから。
性的マイノリティに関していうなら、全ての人が子孫を残さなくてもいい。性的マジョリティの人だって、子孫を残さなくてもいい。どちらも全体の一部で、人類全体が存続することを願いあえばいい。
もうそのように生まれているのだから、あれこれ考えたり悩んだりするより、少しでも辛くない生き方を考えた方がいい。
少数派だからといって、罪悪感を抱くことはない。偏見という鎖に、縛られることはない。
と、熱く語る私の話はスルーして「恋バナ」が終わらない友人。あのね〜。眠くなった私は、友人を置き去りにして帰りましたとさ(笑)
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気の合う人と一緒にいると幸せだから、もっと一緒にいたくなる。もっと幸せになりたくなって、もっと近づきたいと思う。もっと、もっと一緒にいたい。
この感情を野放しにすると、欲望になります。執着になります。
美味しいから 、もっと食べたい。ちょっと痩せたから、もっと痩せたい。お金を稼いで欲しいものを手に入れたから、もっと稼ぎたい。
手に入れたものは、なぜか、もっとたくさん欲しくなる。手に入れたものを、失うのが怖いから、もっともっと欲しくなる。どんどん欲望が大きくなって、幸せから遠ざかっていく。
その人なりの、その時々の、ほどほどの量、ほどほどの深さに気づかなくちゃ。
深めることも、広げることも、幸せです。もっと仲良くなることも、幸せです。けれど深めすぎたり、広げすぎたり、仲良くなりすぎると、幸せではありません。
人と人の繋がりにも、飽和点はあって、そこを超えてしまうと、もうドロドロです。
「ほどほど」って、いいですね。
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今朝、私のハイヤーセルフ・神やんが見せてくれたのは、こんな情景でした。
重みや粘りを感じるほどに、真っ黒な暗闇。これ以上は黒くなれないほどの、深く果てしない闇。その暗闇の中に、小さな丸い光が、ゆっくりと動き回っている。
次第に数を増す光の玉は、それぞれが異なる色を放ちながら、回転したり、飛び跳ねたり。
パステルカラーのような、蛍光色のような、くすんだ和色(大和の伝統色)のような。光の玉は、外側に向かって、だんだん薄くなり、白っぽい光を放射する。暗闇との境目は、金色のような感じで。
その金色の先端が、触れ合ったり、重なり合ったりして、また新たな色彩を描く。
あれは…、おそらく、私たち人間の魂ですね。エネルギー体とか、オーラといっても良さそうです。
肉体という羽衣を脱いだとき、きっと私たちは、あのような姿で暮らすのでしょう。暗闇は暗闇のまま、光の玉たちと共にありました。
その暗さの中に恐怖はなく、何もかもを包み込むような、温かい感じがありました。
はぁ〜。いい夢をみました。
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おはようございます。
こんにちは。
こんばんは。
今日も生きていますね。
眠りという、小さな死から蘇った、今日の新しい命。
好きな人と会って、好きなものを眺め、好きなものを食べたり飲んだりして、今日の誕生をお祝いしましょう。
毎日が誕生日です。
お誕生会のように、今日の幸せを味わってください。
この時間の記憶を、写真や動画を保存して見るように、何度も味わってください。
ニコニコ笑顔でいてください。
灰色の気持ちになることもあるけれど。それは自分自身によるものではなく、日本全体とか、地球全体の雲行きの影響かもしれません。自分の置かれた環境や、身辺の状況よりも、もっと大きな力によって、灰色になっていることもありますからね。
悲しいとき、辛いときほど、能天気に構えて、「ま、いいか」と、やり過ごしてしまいましょう。
今日も、お誕生日おめでとう!
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「第一印象」といえば、やはり「メラビアンの法則」ですよね。アメリカの心理学者、アルバート・メラビアンが行なった、コミュニケーションについての実験の一部が有名になったものです。
人間関係AとBにおいて、Aが、好意とも反感ともとれるような矛盾するメッセージを発信したとき、Bは、Aが発した非言語情報(表情・声のトーン・しぐさなど)から多くのメッセージを受信する。…というようなことですね。
・受け取る言語情報は、わずか7%
・聴覚情報(発声のトーンや音量・速度など)が38%
・残る55%は、視覚情報(表情やしぐさ、つまり見た目)
こういうの、みんな好きですよね。こういうの、というのは、数値化したり、法則化すること。分かりやすい説明だから、納得しやすくて、安心。
「見た目の印象と、話術が大事」みたいな話として広がっていくわけです。
「第一印象は、出会いの、はじめの数秒で決まる」というのも、よく聞きますよね。
以下は、私の個人的な見解です。
↓↓
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・言語0.7%、聴覚3.8%、視覚5.5%、残りの90%は「なんとなく」で決まる。
・第一印象は、出会う前から、ほぼ決まっている。
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↑↑
「なんとなく」感じることは、とても大事ですし、人との出会いには、すべて意味がありますからね。
ところで、私たちが出会うのは、人だけではありません。「もの」との出会いもあります。新しい服。新しい家電。お土産のケーキ。野菜、家、車、書籍、文具、タオル、化粧品、調味料…。
どんなものであれ、最初に箱を開けるとき、袋を開けるとき、丁寧に触れることをお忘れなく。
急いでいたり、ガサガサした気持ちのまま「もの」に触れないように。自分の心の調子というか、波動というようなものが、「もの」との関係に影響します。ガサツに扱えば、その「もの」との関係もガサツになり、自分自身もガサツな感じになっていきます。
自分の感覚を鈍らせ、その「もの」と自分を粗末に扱い、しまいには思いもよらぬ展開を見せることもあるのです。
「もの」との最初の触れ合いを、人との出会いと同じように、大切にしてください。
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巨木が大きく、深く根を張るように。私たち人間も、心の根を大きく、深く張りたいものです。小さなことに動揺せず、穏やかな心が育ちそうです。
巨木の樹皮が、ひび割れていても美しいように。私たち人間も、お肌のシワを、美しく深めたいものです。まぁ正直なところ、シワは気になるのですが、なるべく笑顔のシワを育てなくちゃ。
巨木の葉々が、濃く重なりあいながらも、陽の光を通すように。私たち人間も、小さな光を誰かに分けたいものです。受け取って、吸い込んで、吐き出して、循環させる。呼吸するだけで、太陽の恩恵を、世界に巡らせることができます。
私たち人間は、つい何かを独り占めしたくなる。独り占めしたって、豊かにならないのにね…。
あぁ、私、ダメじゃん!…と思ったときは、巨木を見習うことです。
で、もうひとつ。私たち人間は、大地を歩むための脚を与えられておりますので、親しくなれそうな巨木を探して歩き回ることができます。もし、あなたが今、ちょっと弱っているならば…。さっ!歩きましょう!
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言い訳、説明、弁明…などなど。本意でないことについて話しているとき。人は、どうしても口数が多くなりますね。
口数が多いのは、やりたくないことをしている証です。
会いたくない人と、会っているとき。本当は欲しくないものを、手に入れようとしているとき。もう帰りたいのに、立ち去れないとき。どうでもいい時間を、どうでもいいことで埋めようとするとき。楽しくないのに、楽しいふりをするとき。
言葉を使うことによって、本心と向き合うことを避けているんですね。
気づかないうちに、体がゾワゾワして。お腹の深いところに、重くて硬い石のようなものが現れる。その石がどんどん大きくなって、わけのわからない言葉を繰り出して。しまいに、お腹の中で爆発する。
途中で気づいても、やめられない。そしてドカン!とやられた後には…
「あぁ…やっぱり…」
ということになるわけです。
どうぞ、ひとりの時間を大切にしてください。
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自分には、いったい何ができるのか?
愛する人のために、世の中のために、地球のために、どんな努力を、練習を、勉強したらいいのか?どんなことが、できるようになるのか?
それを知るために欠かせないのは…
…自分が何に耐えられるか、何に耐えられないかを知ることです。
どうしても耐えられないことを、無理に耐えようとしても、可能性は広がりません。
耐えられることと、耐えられないころ。
その大きな違いを探ること、嗅ぎ分けることです。
世間では良いといわれること、正しいとされることであっても、それは自分の力を発揮する道ではないかもしれません。
世間の評価とは全く関係のないところで、自分という一つの仕組みが、耐えられることだけに耐えてください。
耐えられないことは、やっぱり耐えられないので、その道を進んでも苦しいだけだと思います。
楽々とできることにエネルギーを注ぎ、楽であることに忠実であれば、自分の能力は全開します。
どんどん先へ、進めるようになります。
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心が弱っているときは、体にがんばってもらいましょう。体を撫でる。体を伸ばす。体を温める。心が弱っているときこそ、体に親切にして、その力を貸してもらいましょう。
体が少しでも動くなら、きっと心と手をつないで、一緒に動いてくれます。体が歩けるなら、心も一歩、前に進めるかもしれません。
体が動けないほど、心が弱っているなら、ひたすら体を休ませてあげることで、心に休憩時間をあげましょう。
他人の力を借りることもお忘れなく。
心も体も同時に弱り、頼るものがないときは、自分の手を自分で握ってください。自分の腕で、自分を抱きしめてください。自分という存在全体が、自分の心と体の、最強のサポーターですからね。
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言葉で表そうとした瞬間に、シュッと消えてしまうものがあります。そういうものは、そういうものなので、どんなものか、言葉で表すことができません。あえて言葉にするなら、はかなく、うっすらとした、なんだか善いものたち…かなぁ。
一方で、言葉に表すことで、クリアになっていくものもあります。言葉という道具が、いい仕事をしてくれるときです。
そこには、やはり言葉で表せない、愛とか情熱とか真心の力が働いているのでしょうね。
いずれにしても、言葉にならないものを、言葉にしたら消えてしまうものを、それでも丁寧に言葉にすることを、諦めずに続けていきたいと思うのです。
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